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2016年07月12日

参院選2016

2016-07-10 17.05.02.jpg 参議院選挙でしたので、まじめに投票に行きました。

 消去法で投票をするようになってもう随分になります。できれば「この人を当選させたい」と思って投票したいと思っていますが、なんかもうね、このところずーっとあいつだけはいやだから、もっと嫌いだけどその対抗馬に入れるしかない、とかそういうつまんない心根で投票に行ってます。実に遺憾。極めて遺憾。

 そういや雪風も選挙権もらったみたいで、ちゃんと投票には行ったようです。誰に入れたかはどうでもいいけど。

 候補者がしょぼいのは国民の民意の反映、みたいな言われ方もしますが、一票を入れくなる人がいないってのは私のわがままなんすかねえ。
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2014年01月24日

本の価値と価格

 べるじゃねーぞさんよりコメントを頂きましたので、以前より考えていた「本の値段」というものについて書きます。

 本の「価値」と言うものには、

 A.材料、印刷費、コンテンツ作成工数、流通コストを含めたモノの価格
 B.ソフトウェアとしてのコンテンツの価値

 の二つの側面があります。A要因が価格、B要因は価値です。この二つがないまぜとなって本の価格になるのだと思いますが、私の経験からいって、ほとんどの本は厚みで値段が決まっているようなところがあって、「名作だから高い」と思った経験は私にはほとんどありません、出版社としてはA要因で値段を付けてきた経緯はあるんじゃないんですか。電子書籍化やばいですねw

 著作権の対象としての書籍を語る場合は後者のB要因がクローズアップされます。電子書籍が通常の紙媒体とあまり変わらない値付けがされる場合にこれが根拠として主張されることがよくありますね。

 しかし、自動車に軽自動車規格があるがごとく、日本には「文庫本」という規格もあります。新刊の単行本に比べ、おそらく色々なコストダウン、価値の減少があり、価格をさげることでそれらをカバーしているのでしょう。

 文庫本が安い理由を考えてみます。

 1.判型が小さいため、材料、物流などのモノとしてのコストが安上がりなこと
 2.テキストとして完成しているコンテンツの再収録であるために、コンテンツ制作の手間が少ないこと
 3.新刊単行本である程度回収が終わっている「少し古い作品である」こと

 1、2はA要因のコストダウンですし、3.はB要因の価値の減少と言えるでしょう。従って文庫本は通常の単行本の半額くらいで売られることになるのでしょうね。

 電子書籍はまずA要因のコストを大きく減少させるので、単行本に対する文庫本のように、別の値付けがあっていいと思います。いまは出版社のビジネスモデルがついていかないでしょうし、古いモデルに執着する会社も多いでしょうからすぐには変わらないかもしれませんが。

 個人的には「コンテンツの持つ価値がメディアによって変わり得るのか」というのは大変興味深い問題です。神林マニアとしては「ワープロで書いたら違う内容になったろう」という一言が思い出させられますね。さしずめ「Kindleで読んだら、別の内容になったろう」というところでしょうか(これは某所でそのまま書きましたw)。どうなのかな。自らを振り返る毎日です。

 電子書籍に対する抵抗の多くは心理的障壁(「紙の本でないと頭に入ってこない」とか)と思いますが、Amazon辺りが最近始めたKDP(Kindle Direct Publishing)では「販売後の書籍の改訂」ができたりしますし(先日購入済みの「青き鋼のアルペジオ」が改訂版に変わってたけれどどこが変わったんだろう)、そういった電子書籍ならでは技術が、読書体験にどんな変化をもたらすのか、それは自分にとっていいことなのかよくないことなのか、興味の尽きない昨今です。

 追記
 ここまで書いてアップしたところで、情報の価値を問うな | 日々雑感IIでまったく同じことを書いていたのに気が付きました。バカスww
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2013年02月02日

情報の価値を問うな

 オタキングのところで、こういうブログを紹介していました。
俺「じゃあもしYouTubeでいつもきいてるカゲロウなんちゃらが毎月100円払わなきゃ聴けないって言ったらどうするよ??」

ちょっとつっこんだ質問を投げかけた!!

小「んん〜〜迷うけど、お金払ってまで聴こうと思わないかな〜〜」

 今時の子供にしてさもありなん、といったやりとりですね。「CDの音質」に価値を求めるというのにいささかの無理があるというのは私も同感かな。一方で大画面で画質を追求したTVを買いたがる割には、数インチのちっちゃな電話機の画面でコマ落ちな動画見てよろこんだりもしているわけですしね。

 最近電子図書が何度目かのブームwらしいので、そろそろ試しに買ってみようかな、などと手を出してみたり見なかったりの昨今です。

 情報には情報それ自体の価値と、その情報を流通させるためのメディアのコストとがあってその二つがあいまってコンテンツの価値・価格を形成しているわけですね。

 したがって問題は二つあって、ひとつは情報を流通させる為のメディアに対する価値・価格の問題。本を作って読者に届けるコストは電子化すれば極端に下がるはずですが、ではそのなかに情報それ自体のに対する価値はどれだけ含まれていたのか、という話。

 最近のKindleストアなどで電子書籍などを見ても、思ったより安くなっていない印象があります。製本、流通コストは意外と割合的には少ないのかという気もしますが、その辺は売っている側の自己申告なので、今のところ出版社側に都合のよい値付けなのかなと思っています。

 実際紙の書籍にも「文庫落ち」という現象があって、単行本1800円の本が文庫版になると1/2〜1/3程度まで値を下げるのが通例ですので、電子化する場合はもっと極端に下がるのがよろしいんじゃないかと思っています。

 もちろん「出版社の取り分」は編集のコスト+付加価値+営業利益で形成されていますから、出版社ならではの付加価値というものも考えないといけません。名編集者が作家と組むと、それだけで実力が通常の三倍になったりもするそうですから(嘘)、「編集」も「コスト」としてではなく「付加価値」として認めるべきだという考え方もあります。
 漫画なんかではそのへんは極端らしいです。編集者が漫画家に描かせているとまで言い切る人もいるくらいで、その辺はブラックジャックによろしくのあの方なんかはずいぶんとホットに戦っているようですが。

 でもまあ一般的に言えば作家=コンテンツ創作、出版社=メディア製造+流通という役割分担が一般的だと思うので、後者のコストは電子化によって減少するのが筋じゃないかという気はしています。その辺が「思ったより価格が下がらない」という違和感につながってるのかもしれません。

 一方、もうひとつはコンテンツそのものにどれだけの価値を認めるかという問題。

 私は音楽や文芸には人生を変える「力」があるし、その価値に対する代償を払うことは惜しまないけれど、小学校5年生辺りに聞いてもそのような見識はまだまだ出てこないのかもしれません。そういった未成熟(と言いきっちゃう笑)なまま、年だけ取って行った人間が消費者層の大半を形成する時代がくると大変困ったことになるのではないか、と危惧しています。

 実際自分だって他人様より御立派な人生を送ってきたわけでもないのに、それでもこういう価値観の人間に育ちましたから、誰だって人生のどこかでそういう知的ブレークスルーは起こり得ることなのかもしれません。願わくば全ての子供たちもいつか素晴らしいコンテンツに出会って、情報に価値を認めるような大人になって欲しいと思います。

「大好きな音楽だけれど100円払うのはもったいなから、もしそうなったら聞かない」というのは、とてもさみしいことだと思っています。

 「価値と価格」についても語るべきかな。
 それはまたいずれ。
posted by delta16v at 08:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 私論/暴論

2011年10月13日

ドッジボール

 知り合いのお子さんですが、ドッジボールをやっていて指にヒビが入っちゃったそうです。たいへんたいへん。

 自分が苦手だったせいか、昔からドッジボールというものにあまり好感を持っていません。なにしろどんくさい子供だったんですよ。

 そもそも、数ある球技の中でも「相手の体にぶつけること」を目的としてボールを投げる競技というのは、他にあまりないのじゃないでしょうか。強いボールが飛んでくるというと、テニスや卓球やバレーボールなんかもそうですけれど、あれは体に当てるために打ち込んでくるわけじゃないし。

 秋月みたいにキャッチングの練習としてボールを受けてる奴は、副次的に練習になっちゃってラッキー!なのかもしれませんが、やっぱり力の強い子が弱い子を狙ってボールを投げるゲームというのはあまり好きになれないのです。

 「ボールを投げる」というのは多くのスポーツで「パス」を指すことが多く、それは味方同士で「相手がとりやすいように心がけて投げる」という思いやりが結果に現れるプレーだと思うのです。そっちの意味合いの方を大切にしてやりたいなぁなどと考えています。

 私なんかは昔から屁理屈屋なもんで、中学のころにはバレーボールなんかも

「相手が一生懸命つなごうとして失敗したプレーを、目の前でぐるぐる回って喜ぶようないやしい競技は嫌いです」

と感想文に書いて、バレーをやっていた体育教師を怒らせたりしたもんでした(若気の至りなんでバレー好きの人怒らないで下さいませ)。

 ドッジボールも危険がどうこうという以前に「人にものを投げて当てる」という行為の意味を考えたりします。当てられると痛いんだよ、いろいろな意味で。まあ弱っちいからなんだけど。

 やっぱり、あまり好きにはなれないなw
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2011年05月25日

準備万端

高原学校の準備 秋月たちはもうすぐ高原学校があるらしく、その準備に余念がありません。

 色々な状況を想定して準備しておくのは楽しいことでもありますし、いいことだとは思うのですが、最近の風潮にはいささか疑問に思うこともあります。

 なにしろ準備の念の入り方がすごいんですよ。ちょっと度を越しているんじゃないかと思うくらい。

 飯ごう炊飯も楽しいと思うのですが、事前に校庭で練習をします。まあ練習くらいはいいよね、と思うのですが、その練習の時に失敗したらいけないので、その場合に備えておにぎりを持ってくること、とか言われると、うーんどうだろう。失敗は失敗なので、その時はいさぎよく敗北の味をかみしめるのがいいのじゃないかという気もします。

 雨が降ったら外に出られないので、その時に見るDVDを事前に多数決で決めておく、とかまで聞くと、やっぱりそこまではどうかと思うのです。

 近年の世の風潮として、

「失敗は悪しきもの」
「断固として絶対に避けるべきもの」

というリスク回避のバイアスが強すぎます。「自己責任」とか「オウンリスク」が流行り出したのは小泉改革あたりからの傾向でしょうか。そんなに昔からの日本人の体質というわけではなかったと思います。

「一生懸命やって失敗したらあきらめればいい。困った時は困りながら知恵を絞るがいい」

とのんきに考えている私からすると、あまりにも世の人々はリスクを恐れすぎなようにも思います。以前私がやった男の旅みたいなことをすると大騒ぎになっちゃうのかしらん。

 買い物ひとつ取っても、事前にネットで調べまくり、一円でも高く買ってしまったら負けた気がする、とかいう人もいます。なにか行き過ぎているんじゃないかなぁ。

 「失敗を恐れるな」

とはよく言われる言葉ではありますが、存外深い言葉だったのかも知れんな、と再考する昨今です。

 人生いたるところリスクあり。困った時は正々堂々と困って、そこから脱出すべく知恵を絞ること。困ると嫌だからなにもしないなんてことは、楽しい人生じゃない。

 子供たちには、そういうことを教えてやりたいと思います。
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2010年08月26日

今敏氏死去の件

 アニメ監督の今敏氏が亡くなられました。癌だったそうです。

 「千年女優」も「パプリカ」も好きでした。映画好きならきっと気に入る映画だよね。今敏監督:パプリカ | 日々雑感IIの時は妻と二人で見に行ったんだっけ。

 ご本人の遺書がブログに残されています。しばらくはつながらないだろうとおもうので、まとめサイトへのリンクをつけておきますが…

今敏の遺書がすごすぎる件・・・:ハムスター速報 - ライブドアブログ

 すごいというよりは、心からの文章だと思います。世の中みんな生きているのに、自分だけ死んでいかなければならない者の心境を淡々とつづられているんだと思います。

 人はふだん具体的な自分の「死」というものを考えません。そんなことばっかり考えていたら生きていけませんから、自分がどんな場所でどんな時間にどんな思いで死ぬんだろうか、とかそういうことは普段は心の隅に押しやって生きています。でもこういう文章に出会った時に、誰でも避けえない「死」という局面に相対し、その文章がより心に迫ってくるのではないでしょうか。

 自分が夜に死ぬか、朝に死ぬか、夕方に死ぬか、昔色々と想像したことがありました。夜だったら多分もう一度朝日を見たいと思いながら死ぬのかな、とか、昼だったら俺こんなのんきな時間帯に死ぬのかよ、とか思ったりするのかなとか。

 その時に自分がどれだけじたばたするのかはわかりませんけれど、残る者たちに何か情報を残してやりたいとは思うかもしれません。毎年子供の誕生日に届くメールを20年分とか、リマインダー使えばすぐにセットできるよね。

 でも案外そういうことはやらない気もする。ブログがしばらく残れば十分かな。私が生きていた証は、こうやってつづっている日々の雑感から汲み取ってくれるでしょう。後は俺エキス100%で育ててきた子供たちが体現してくれるはずです。あいつら見れば、「俺」がわかるよ、きっと。な、諸君。

 今敏監督、作りかけの「夢見る機械」はとても残念だったと思います。今敏版の「夢見る機械」見てみたかったけど、しかたがないよね。生きることの意味が、監督の死でよりはっきりしてくるような気もします。

 ご冥福を。
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2010年05月19日

作品における品格について

 「品格」なんていうと、またぞろあっちこっちから叩かれるんだろうけれど、おもいついたので書いてみるの巻。

 毎日小学生新聞に歴史のまんがが載っているのですが、昨日のネタがあまりにも目に付いたので、ちょっと注目してました。

 坂本龍馬の酒癖が悪かったので、中岡慎太郎と酔っぱらって喧嘩になり、相撃ちになったのが龍馬暗殺事件の真相だったというネタ。

 まあ死人に口なしなんで、どう侮辱しても本人からのクレームは来ないんだろうけど、これはちょっとひどいよね。子供は活字になったものには敬意を払うように教育されているので、信じる子もいるかもしれません。

 今日の分を見てみると、「これは歴史に埋もれた真実である」と断言したコマの次に「ここでクイズです。これは本当である、この話はウソ八〇〇である」とかフォローしてますが、どうなんだろう。あまり面白いネタでもないし、歴史ファンとしてはちょっとショックな作り話でした。

 もともとこの連載は「なんだか品がないなぁ」と思ってみていました。単に下ネタとかナンセンスとかそういうだけじゃない、何か読んでいてやるせない感じがする作品です。

 その昔のドリフですとか、「トイレット博士」ですとか、相当に下ネタで下品だったわけですが、不思議と「品がない」という感情を覚えた記憶がありません。うまく言語化できていないのでこういうのが作品における品格の基準だ、と明言は出来ないのですが、やっぱりそこは「エスプリとユーモアの違い」なのかな。自虐の笑いと他者を叩く笑い。うーん、どうなんだろう。「下品だけど品のある作品」てのも私の中の評価では「あり」なのです。

 どうにもうまく言語化できていないのですが、今のところ、心の中の妖気レーダーが時々反応することがあるので、なにかしら自分の中ではそれを判断する基準とか閾値がある様です。

 これからも掘り下げて考えてみたいテーマです。
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2010年05月13日

正義の子

ACの広告 ACジャパンのこの広告、よく新聞に載っているんだけど、

 「右の若者は怖いので叱れません。こわくない小さい子供のうちに叱りましょう」

 と、受け取れて、少々不愉快。まず「困った大人」を先になんとかしろよ。

 うちの子には「正義は正義」と教えていますので、色々な現実に於いて、非正義が平気でまかり通ってしまうことがままある、という事実との折り合いに親子で苦労しています。

 普段やってはいけないことと教えていることが目の前で行われているの見た時、陰でこっそり子供に

 「本当はいけないんだよね」

 とささやくとか、そんなぬるいことはする気がないので、例えば保育園の前の停めちゃいけないと言われているところに駐車している親がいたら声を出して注意する、信号を無視して渡るおっさんがいたらオイコラ赤だぞと声をかける、などということを日々やっているわけです、いや、教育上の要請で。

 あちこちで陰口言われたり、そのうち刺されたりすんじゃないかという気もしますが、正義が正義として評価される世の中にならないかなぁと願っています。「逆ギレ」とか「逆恨み」とか、そんなの死語にしてもらいたい。それにしても悪いことをしている奴の方が力があっていばっている、というのがちょっと困る。私、ひ弱なんスから。

 自分の得になるちょっとした不正、というのも厳に自戒していますw

 おかげで父も正しく生きていくことが出来るよ。

 いろんな事情もあると思うけれど、とにかくまずはフェアにやるのが原則だと思うなー。
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2009年07月18日

ブログを書く理由

 かのogochanの記事にピンときたので、書く。fjの頃からネットの周辺をうろついていた私なんかには、ogochanにトラックバック打つなんてのは、実に畏れ多いことなんだけれども、なんてったって書きたいんだからしかたがない罠。
いまだ忙しいので、ゆっくり文章を書く精神的余裕がない。

と同時にRSSも未読の山… なので、久々に404を見に行った。

自問自答 - 私がタダでものを書く(こともある)理由

あまりコメント欄は読まないんだけど、気の迷いで読んでしまったのだが、

  タダで書く理由よりも、毎回コメントではてブでdisられまくりながらも厚顔無恥な暴論を吐き続けられる理由を教えてほしいです。

それを「書きたいから」って言うんだよ。
おごちゃんの雑文 » Blog Archive » 要するにそれが「書きたいから」
 404というのは言わずと知れた小飼弾氏の404 Blog Not Foundのことなんですけれど、あの方も日々書きたいことを好きに書きまくっておられますね。それがあちこちで波乱を巻き起こしたりもするわけですが、馬耳東風でおられると。

 で、ここからが本論。

 自分がブログを書く理由は色々ある。日々を記録してよりよく生きるため。子供の事を書いておいて、大きくなったときに笑って読み返すため。単にアクセスが増えてログを見るのが楽しいから。ネットでの知り合いとの交流が出来るから。

 どれも正しいがどれも十分条件ではないような気がする。ogochanが指摘しているように、書きたい欲と考えるとわかりやすい。食欲や睡眠欲や性欲と同様の「書きたい欲」があるという説。なるほど。確かに小飼氏ほどにもなれば毀誉褒貶もたいそうなものであろうし、そもそもあれだけ財力を持てあましてそうな人(推定)が、なんであれほどにまでアクセスを得るための努力を惜しまないのか、実に不思議ではあったのです。

 昔、読んだ西垣通だか黒崎政男だかで模倣子(ミーム)てなものを了解したわけだけれども、まるで自分がミームの乗り物であるかのような気分になる時は確かにある。自分の持つ情報、思想を「誰かに伝えなければ」という渇くようなこの欲求は一体どこから来るのか。

 「攻殻機動隊」に出てくる自然発生のAI・「人形使い」がいうところの、「ことあるにつけグライダーを飛ばすだろう」というのはライフゲームを見たことのない人には、まるっきりイミフな表現なのだろうが、やはりあれ、あそこには一定の真実がある。士郎正宗自身もこなれていない表現だと思ったらしく「適切な表現でもないし」などと欄外に書かれているが。

 「グライダー」とはWikipediaによれば
グライダーは、ライフゲームにおける代表的な移動物体である。ライフゲームにおいて最初に発見された移動物体であり、最小の移動物体でもある。

ライフゲームで頻繁に出現する物体の1つであり、出現率はブロックの1/3程度である。

この物体は、Rペントミノの解析中にリチャード・ガイによって発見された。2単位時間ごとに反転を繰り返しながら移動する物体は、その移動の様子と「グライダー投影」からグライダーと名付けられた。

セル・オートマトン一般には、グライダーのような移動物体を、宇宙船と呼ぶ。
である。

 以下のこれがグライダーの現物だ。

グライダー

 このように生命体の破片が、あちこちへ飛散していくさまが、ライフゲームでは確認できる。これは特に「グライダー銃」と呼ばれる構成で、同一の方向にグライダーを撃ち続ける形なんだけれども、実際にはこのグライダーが四方八方にばらまかれて、他の生命とくっついたり消滅したりする。

 書き散らされるブログのエントリは、活動体を中心に四方八方へランダムに飛ばされるグライダーに等しい。グライダーは他の活動体と結びついて、新たなパターンの活動を生むだろう。素晴らしきかなライフゲーム。

 自分の知見を他者に知らせたいと思うこと。それは情報伝播に関するコストが高かった時代は、よくて壁新聞、頑張る人でも同人誌がせいぜいだったろう。しかし人と人とがコンピュータネットワークでつながった時に、「ブログ更新欲」と言えるものが発生することは自明のことであったのかもしれない。

 「利己的な遺伝子」もそうだけれども、自分が「利己的な模倣子」の乗り物にされているなんて、あまり気持ちのいい話じゃあありませんけどね。

 私の書いた記事が、誰かのところに届いて、その人の考えにほんの少しの影響でも残せれば、とてもうれしい。
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2008年05月22日

ホームラン

ホームラン 頭のCPUがアイドルにはいったので、朝、ラミレスが踊っているのを見て思いついたくだらないことをつらつらと考えています。

 子供の頃から野球と親しんできて、まったく違和感がなくなっているのですが、改めて考えてみると、野球というのは、ほかの球技とはずいぶん変わった特徴があるスポーツなのですね。

 攻撃と守備のターンが完全に分離されていること。

 普通は攻守一体であったりとか、瞬間の判断で攻守ところを変えて攻防を繰り広げたりすることが見る方の醍醐味でもあったりするのですが、野球の場合、スリーアウトという決まったタイミングまでは本当に攻めっぱなし、守りっぱなしなのですな。攻め(あるいは守り)に特化して落ち着いて観戦できるというメリットはありますが、サッカーや卓球のようなスピード感は生まれにくいですね。

 ポジションによってのスキルの違いが極端であること。

 ピッチャーとキャッチャーは山田と里中くらい違いますね。サッカーではゴールキーパーが違うんでしょうが、その他のフィールダーは少なくとも道具は一緒だし、同じような動きをするはずですが、野球では道具すら違う。キャッチャーミット、ファーストミット、グラブも実は内野と外野ではちょっと違う。
 守備位置がある程度固定されている為、左右の対称性の問題から、動きも全然違ってきます。左翼線には強い打球が飛びますし、ランナーは一塁から回るので、右翼線はそのフォローに走り回ることになります。右利き選手が多いので、そうなるのだな。

 そう、ホームランだ。

 ホームランて、変です。

 要するに長距離を飛ばして、フィールド外に出ると点が保証されるというルール。こんなの他のスポーツにはあまりないのではないですか?砲丸投げとかハンマー投げはあるかもしれませんが、あれは露骨に距離で勝敗を競うので、ちょっと違う感じがするし。

 しかもですね。ホームランを打ったら、その時点で一点やってしまえばいいはずなのですが、一周するんです。のんびりと。手を振りながら。

 あれ、考えてみれば面白いよね。ホームランは確定しているんだから、別に一周回らなくたって点を入れてしまえばのにね。実に不思議だ。

 小学校の頃からまったく疑問に思っていなかったのですが、ちょっとCPUを無駄に回してみました(笑)。
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2008年04月29日

手書きの顔文字

顔文字 先日、某短大の立て看板に、こんな顔文字が書いてあるのをみてびっくりしました。

 AAにしろ、顔文字にしろ、ネットコミュニケーションが発祥です。限られたコンピュータの文字で各種の「シニフィエ」を現す「記号」として作られたものなわけですが、なんと最近の若い人々は手書きでもこんなものを使うのですね。

 「(笑)」などという記号は私もよく使いますが、手書きではあまり使わないなぁ。古い人間なんですかね。

 事の是非は判断しにくいですが、私としてはかなりの違和感を感じました。手書きでなんでも描けるんだから、もっと自由な書き文字を入れればいいのに、とかね。「記号」すなわち「シニフィアン」の力に頼りすぎているっていうのかな。これはまあ、自戒でもあるわけですが。

 また、wikiなどでも、
顔文字 - Wikipedia
傾向として、2ちゃんねる内で使われているものと、ネットコミュニティで利用されているものの差は『口(くち)』にあることが多く、ネットコミュニティにも口に『Д』や『ー』を使用したものは、多少は受け入れられるが、『∀』や『ω』、あるいは半角カタカナを使用したものは、特に中年層に受け入れられにくく、2ちゃんねる風の表現に対し、著しい不快感を示す人もおり、甚だしい侮辱と受け取られる恐れもあるので注意が必要である(機種依存文字の多用により、文字化けを起こして読めなくなる可能性もある)。
とありますので、今後どうなるかはわかりませんが、こういう「記号」を当たり前とするだけではなく、その歴史や事情も理解して使った方がよろしいのかも知れませんね。
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2007年12月01日

「品質劣化」へのさみしい視線

 fladdict.net blog: 「品質」という概念の価値が相対的に下がっているにて品質低下に関する批評が提示されており、興味深く読ませてもらいました。で、「品質低下」について書きます。

 いろいろと世の中の品質が下がっていることを苦々しく思うことがある。最近一番腹立たしいのは写真の業界だ。

 銀塩写真をめぐるテクノロジーはおそらく21世紀の初頭にその絶頂を迎え、その後、驚くべき速さで急速に退化した。よく勘違いされるのだが、進化が停止しているのではない。完全に退化している。銀塩フィルムの多様性の激減。プリント品質の驚くべき低下。カメラ自体の開発、発売の停止。メンテナンスの終了。自明のように写真のデジタル化がほぼ完了した昨今、それに反して銀塩写真が退化するのは実に当然のことではあるのだが。

 デジタル写真は単なる画質の面では最高のパフォーマンスを示していた頃の銀塩写真のあり様には、未だ届いていない。

#反論あるかもしれないが、まあそういうことにしておいてくれw

 それがなぜ一般的に通用するのか。「品質」に関する要求が大きく変わったのだ。カメラの世界はプロとアマチュア(というか運動会で孫を取るじいちゃんとか)が同じ「品質」の機材、材料を用いることのできる業種だった。

 だがプロが「低画質」なデジタル写真に雪崩を打って移行したのは、「マス」からの「品質」に関する要求が、意外にも高くないことを知ったからではないか。それだけコストが下がり、納期が早まるのなら、若干品質は少々下げてもかまわない、とクライアントが認めたのだろう。オーダーが変わらなければ、プロはデジタルに移行することはできなかったはずだ。

 カメラマンたちはその辺十分に自覚的だ。だからプロカメラマンがいう

デジタルに移行しました。
でも『作品』として撮る写真は、未だにフィルムです、てへへ」


というセリフは、実は彼ら自身の要求はクライアントの要求よりもずっと高いことを示しているのではないか。

 メディアの品質からコンテンツの品質へ。それはアートの本質を射抜いている。

 たとえばニコ動ユーザがいう

「無駄にクオリティたけぇ」
「才能の無駄遣い」

というセリフはたとえばそれがハイビジョン画質の動画であったり、ビットレートが飛びぬけて高い音声であったりということを意味しない。「そこに何が映っているのか」、「何が歌われているのか」こそが問題なのであり、そこでは「品質」という言葉は旧来のAV作品がいうところの「品質」とは、少しながら違う使われ方をしている。

 そしてそれは最近突然始まったというものではなく、たとえば「その時キャパの手は震えていた」などという写真を見れば(これは嘘半分なのだけれど)、メディアやデザインの品質を飛び越えて存在しうる「作品の品質」というものは古来から珍しいものではなかった。要するに、メディアの品質の低下は、アートとしての価値の低下の本質ではない。それが芸術の本質を表現しているのは事実だ。従って変な色のフィルムでも、低劣なプリントでも、「いい写真」は撮れるはずなのだ。

 だが銀塩写真の周辺技術、インフラの後退が、なぜこれほど自分を苛立たせるのか。

 すでにデジタルカメラが中判の画質を超えたというような言説を聞くたびに、あの色、あの粒状性を知らずして、そのようなことを語れるのかと反論したくなるいらだち。それは元ネタを知らずして、パロディに浮かれる若者を批判的な眼で見てしまう老害によく似た感情の一種なのか。

 たとえばアニメもそうだ。劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」の最終決戦シーンを見るがいい。あれが手描きSFアニメが到達した「品質」としてのおそらく頂点だ(なおかつコンテンツとしての「品質」も高いのだから困るw)。コストが重視され、CGを多用する今日ではあのような作品は作り得ないのではないか(そうすると「無駄にクオリティたけぇ」の元祖はDAIKONフィルムあたりまでさかのぼるのかもしれない)。

 何か「劣化していくもの」を見る目は、例えば元に戻っていくチャーリー・ゴードンを見守るようなもので、それはおのずからさみしい視線にならざるを得ないのかも知れない。

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2007年10月20日

当たり前であったものが失われる時

200023.JPG ガソリンが高騰を続けています。そろそろ150円に乗るのではないかなどという話もあり、クルマ道楽としては、いろいろと頭の痛いことです。

 単に政治、経済事情による高騰ならば、そのうち下がることもあるのでしょうが、これだけのクルマが世界中を走り回り、日常生活を石油が支えていることを考えれば、なんで世界の油田が干上がらないのか、そっちの方が不思議になります。

 実際の数字は当たっていないのですが、向こう100年、同じような生活が続けられるかと考えてみると、ちょっと難しいような気もします。

 今は毎日にクルマに乗って仕事に来ているわけですけれども、いつまでこのような生活ができるのでしょうか。たとえば雪風は大人になったらデルタに乗りたいとか、エスプリがいい、とか勝手なことを言っていますけれど、はたして彼らが大人になった時代にガソリン車が走っているのでしょうか。

 私たちが子供のころは大きくなったらミウラに乗りたいとか、やっぱヨーロッパがいい、とか同じようなことを言っていましたけれど、あの頃と今では未来に対する「開け方」がかなり違うように思います。自分が年を取っただけなのかなぁ。

 ところで、今はデジタルカメラが「カメラ」ですけれども、私にとっての「カメラ」というのはやっぱりフィルムを使う銀塩カメラです。

 七、八年ほど前になりますか、デジタル一眼レフが普及し始めた頃「銀塩フィルムがなくなるんじゃないか」と焦燥に駆られたことがあります。カメラ屋の店員さんと雑談していて「フィルムはなくならないですよ。両方併存するんじゃないんですか」とその時は笑われたのですが、実際には十年もたたずにPKRが生産中止になったり、月光が手に入らなくなって森山大道がインクジェットプリンタを使ったりするような信じられない時代になってしまいました。あっという間に世の中が変わってしまったのです。

 私はオーディオはやっていないのですが、CDがアナログ盤をあっという間に駆逐した時に、マニアな方は同じような思いをされたのでしょうか。

 世の中の変革は想像できないようなスピードでやってきます。未来永劫、昨日と同じ明日がくると思ったら、大間違い。そんなことは想像もしなかったと叫んでも後の祭りです。「ポイントオブノーリターンを超えた瞬間」というのはどこかに必ずあるはずですが、それは後になってみないとわからないのかもしれませんね。
 
 備えよ常に。

 そしてその想像力と共に、よりよい明日を創る微力を自分に。
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2007年10月12日

アマゾンはなぜペリカン便をやめないのか

 以前、amazonのペリカン便配送をなんとかしてくれという記事を書きましたら、全国から日通のペリカン便への苦情が大量に集まってしまいました(笑)。

 私も何度もアマゾンへペリカン便関連の苦情を寄せましたが、コピペなメールが返ってくるばかり。なぜなにも対処しないのだろうなぁと思っていましたが、いろいろとぐぐっているうちに根本的な理由がはっきりしました。

 アマゾンの送り状に載っている配送元の住所は千葉県市川市塩浜2-13-1となっています。この住所でぐぐってみますと、アマゾン市川フルフィルメントセンターという情報とともに、日本通運(株) アマゾン事業所という情報もヒットするのです。

 そうかー、要するに配送センターを建てる時に、日通と提携してセンター内に配送業者として組み込んであるのですね。こりゃおいそれとは業者を変えるわけにはいかないや。

 よーくわかる記事としては、アマゾン市川フルフィルメントセンター - 通信用語の基礎知識を上げておきます。
Amazonの「配送状況の確認」の商品所在地欄では「アマゾン」と表示され、ペリカン便の配送状況では「江東支店アマ事」と表示される。

建物は日本通運の所有で、日本通運はこの建物を「日本通運(株)アマゾン市川DC」と呼んでいるようだ。

内部構造は不明だが、近隣、隣接あるいは内部に日本通運が存在する。
とあるし、なにしろアマゾン・ジャパン・ロジスティクス株式会社と日本通運江東支店アマゾン事業所と並んで表記されている看板の写真が見られます。

 それにしてもペリカン便の社員の対応の悪さは異常です。私自身、とても客商売とは思えないような対応を何度も受けました。フォトレポート:アマゾンの新物流センター、最速24時間発送を支える工夫などを読むと、アマゾンがどれだけの投資と苦労で24時間発送しているのかがうかがえます。しかし、苦労して24時間以内の発送を行っても、ペリカン便の不手際で顧客の受取が激しく遅れてしまっていることをアマゾンはよく考えるべきです。

 私も5000円以上になるときは、なるべく紀伊國屋書店BookWebを利用するようにしていますし、このままだとアマゾンの将来にかかわるのじゃないですか。

 業者が変えられないのなら、アマゾンは大手顧客としてペリカン便を強く指導するべきなのではないでしょうか。
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2006年12月19日

amazonのペリカン便配送をなんとかしてくれ

 「で、みちアキはどうするの?」の、
そして今年のアマゾンへの注文回数をさっき数えたら40回を超えていました。おとくいさまと言えましょう。ペリカン便は毎度毎度再配達ご苦労さまだ。平日はいませんって登録できないんですかね。
という一言を読んで、普段の怒りを思い出しました。

 ペリカン便の再配達って、18:00までに電話しないと、必ず翌日配達になるんですよ。そんな時間に帰宅して、再配達依頼の電話を入れるのなんて、そんなの無理!
 クロネコは少々遅くても当日来ますし、なんかすると電話しなくても夜に再度寄ってくれたりします。サービスが段違いだ。

 その分、配送料が違うんだろうけど、迅速な配送を心がけているamazonはペリカン便を使うのをやめるべきだと思います。一般のサラリーマンはペリカンのおかげで確実に一日受け取りが遅れているんだよ。

 ペリカンにも何度も苦情出しましたし、amazonにもメール打ちましたが、私一人が騒いでもなんとも、って感じですかね(笑)。ペリカンが当日再配達してくれるか、amazonがクロネコに変更してくれるか、どっちかやってくれないかなぁ。
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2006年12月13日

階層社会における低所得層の固定化と子供の未来

 労働組合は物分かりが良すぎたを読んで。

 階層社会については星の数ほどの論がありますので、どれを取ってもいいんですが、まあ最近読んだのがこれ。まあ連合のおじさんのいうことなので あれですけれど。

 後のほうに出て来る。
高木 “いい大学”の学生の家庭は、豊かなところが多い。塾に行ける子供と行けない子供の格差が、そんなところに如実に表れている。
 てのはよく出て来る言辞ではあるけれど、子を持つ親としては結構どきどきする話ですよね。

 自分自身、塾なんて行ったことないし、たいした学歴があるわけでもない。たまたまの行き当たりばったりで人生送ってきましたもので、あまり大口は叩けませんぬ。でも、やっぱり自分の子供も塾にやったりとかはしたくないと思っています。
 自分の送ってきた人生に鑑みて、不要、と思うわけですが、よく注意しておかないと自分が生きる時代と子供が生きる時代は異なる可能性もあります。自分の意志の通し方と時代との兼ね合い、というものいちお考慮する必要はあるわけですね。ああ、俺、大人になったなぁ。

 今後も多分子供の塾通いというのはやらせないつもりですが、前述のような意見があまりに多いので、こういう姿勢を貫徹するのにもそれ相応の覚悟が必要なのだなと思うようになってきました。

 「塾にやらなかったこと」が親として無責任と呼ばれる時代が来るのでしょうか。

#来ても困らんし。
#子供の人生は彼のものであって、彼自身がなんとかするべき問題ですね。

 と、こうやって一応検討はしたので、将来の雪風には恨まれる筋合いはない、ということにしておきます。それ相応の覚悟完了!

 世の論者はあまりにも「機会」というものを重く見すぎているように思います。そもそも人生における向上心というのは、お金の問題じゃなくってね、「生きること」に対する意欲の問題だと思うのです。それを鍛えるのはお金とは別の話。お金があればあったで教育上困ることはないと思うけど。

 それがいつの間にか、

 「低所得層は文教予算が低い」
   ↓
 「お金をかけないので学力に差がつく」
   ↓
 「学力が低いので学歴も低い」
   ↓
 「学歴も低いので就職に不利」
   ↓
 「就職先が悪いので、低所得層の仲間入り」

 といった論法が、途中の説明や証明を吹っ飛ばして自明の理のように語られることに違和感を覚えます。ひとつひとつは十分あり得ることなのでしょうけれど、世の中全部がそういう風に流れる必然にあるのだろうか、と疑問に思います。みんな流されすぎだよ。

 勉強とか運動とか、将来身を立てるのに役立ちそうなスキルについては、うちの子はみんな真ん中よりちょっと上くらいです。特撮鑑賞能力とか、模型概念とかはかなり上の方だと思うのですが。

 政治家や弁護士や医者なんかが、自分の子供を同じ職業につけたがるあの執念というのは、さぞやおいしい商売なのだろうなぁと思わせるのに十分なわけですが、うちの連中は、おたくとして身を立てていくしかないのかなぁ(笑)。政治家や医者は遺伝するようですが、もしかして、おたくも遺伝するのか知らん。

 散漫なエントリになってしまいましたので、最後はオオタコーチのお言葉で締めたいと思います。

 雪風。 努力をしろ。 才能を磨け。 他に頼るな。
 いいか、自らの全身で感じ、頭で考え、心で判断しろ。
 世界で頼れるのは自分だけだ。
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2006年11月09日

子供に見せたくないニュース

 自殺予告公開は自殺を誘発するを読んで、思ったこと。
上記エントリの内容について、すべて同意できるわけではないが、自殺予告の手紙が大々的に報道されていることに対して、ふと疑問に思ったこと。

 大人には伝えなければいけないが、子供には見せてはいけないニュースもある。

 「子供」と言っても年齢だけで決められるわけではない。ここでいう「子供」とはメディアリテラシーが未発達な者だ。

 報道の信憑性、客観性の判断。その情報の持つ意味の考察は重要だ。こういった「メディア」の本質とそこから伝えられる「情報の評価」を理解した人間にしか見せてはならない景色、というものもあるのではないか。

 死にたければ死んでもいいんだ、いじめられて生きる人生ならさっさと自殺せよ、などと極論を主張する人もいる。言論としては自由なのだろうが、大人の言うことを子供は意外と素直に受け入れてしまう場合もある。その時の自分の気分にマッチしている意見ならばなおさらだ。

 世の中の嫌なもの、汚いものからから目をそらせてはならない。たとえば戦争の様相は伝えられなければならない。だが人が人を殺すところを強烈な映像として子供に見せていいとは思えない。

 いっそ、情報を選択して送受信する方法はないものなのだろうか、と思ってしまう。現在のブロードキャストのしかけだと無理なのだろうが。それよりも自分の子供にしっかりしたメディア教育を行うほうが手っ取り早いだろうか。地上波なくせ、ってわけもいかないしな。

 とにかく、朝から自殺する子供のニュースを見るのは、本当につらいです。
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2006年10月24日

西暦、和暦と個人の「時代」

和暦 昨夜、夕食時に「父と母の子供の頃はね」という話になりました。最後に「...というのが昭和時代のおはなし」というと、雪風が「しょうわってなあに?」と聞き返しました。

 今年は何年?と聞くと打てば響くかのように「2006年!」と答えます。「和暦だと?」と聞いても「われきってなあに?知らないよ」といいます。

 日本の年だと?、とか、年の上になんかつかない?と聞いても雪風の頭の周りにハテナが飛ぶばかりです。

 毎日小学生新聞の上を見てごらん、というと、平成18年かぁ。とまあ知らないわけではなかったようです。

 年号については学校ではあまり、和暦には言及していないようです。私が子供の頃は基本的に和暦表記だったように思うのですが。
 これが現在一般の常識なのか、学校教育の場においてなんらかの思想的バイアスがかかっているのか(まわりくどい!笑)よくわかりませんが、和暦というのは時代を区切る場合に非常に使いやすいような気がします。

 日本史で習う年号もほとんど西暦表記ですが、より具体的、個人的な年代認識には絶対的価値を持つ西暦よりも、細かく区切れる和暦のほうが思い入れ強く認識できるようにも思います。

 昭和という時代も、だんだんに私の中で相対化されて、歴史の一部化が進んでいます。ずっとシリアルに連続した年代表記だと、世紀が変わるとかいうきっかけでもないと、こんなふうに時代を区切って認識するのも難しいのかも知れません。

 明治は遠くになりにけり、とはわかりやすいですが、1900年代初頭は遠くなった、というと詩情も湧きにくいですね。

 和暦にはそういう効用もあるのかもしれません。

 和暦がんばれ!
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2006年10月23日

年相応の年のとりかた

 文春を読んでいたら、酒井順子の書評が目を引いた。

 今の四十代がどれだけ「若者気分でいるか」ということについての考察だ。
それはつまり、「人生はまだ後半ではない」という意識なのであろう。まだ世の中に対する責任を取る必要はないし、これから自分の人生はどうとでもなるという感覚。
 その感覚は、四十歳になった私も持っている。「このような四十歳は、どこかおかしいのではないか」と思いながらも、青春期じみた感覚から、ずっと卒業することができない。
というくだり、なかなか反省させられる。まだ子供気分の自覚があるのだな。私だけじゃないのだな。そうだったのか。

 酒井氏の原稿、最後は小泉の顔と安倍の顔を思い浮かべて終わるのだが、昔あったトッチャン坊やという言葉を思い出した。あれは大人の顔した子供ではなく、年相応の顔を持たない大人を表す言葉だった。最近ではもう使われませんね。特に言葉にするほど珍しいことじゃなくなったからなのかも知れません。

 きれいに年をとること、それはとても大切なことだし、目標でもある。
が、童顔でもあるし(笑)、好きなこと、やりたいことがいつまで経っても子供っぽくて困ってしまう。我ながら。

 そういえば、ウルトラ警備隊の年齢構成を思い出した。第一話「姿なき挑戦者」でウルトラ警備隊の隊員たちはこのように紹介されている。
キリヤマ隊長......年齢38歳・隊歴16年・東京都出身
ソガ隊員......年齢25歳・隊歴3年・九州出身
フルハシ隊員......年齢29歳・隊歴7年・北海道出身・地球防衛軍きっての怪力の持ち主
アマギ隊員......年齢24歳・隊歴2年・名古屋出身・名プランナー
アンヌ隊員......年齢「あ、こりゃ失礼」・隊歴2年・東京都出身・ウルトラ警備隊の紅一点
うむ。

 とにかくキリヤマ隊長38歳、フルハシ隊員29歳にがくぜんとする。あのキリヤマ隊長の年を越えてしまった自分。そしてあの眉間の深いしわが男を感じさせるフルハシが二十代という設定なのだ。その後の四十年間で、これだけ人間の成熟に時間がかかるようになったのかと驚く。
 調べてみると、中山昭二氏は1928年生まれ、石井伊吉氏(毒蝮三太夫氏の本名ね)は1936年生まれだそうだ。脚本の製作月にもよるけれども、1967年制作であるウルトラセブンにおいて、ふたりの劇中設定年齢は、実年齢と一致していたと考えてよい。DVDを見て驚くがいい。あれが四十年前の三十代と二十代の姿だ。

 完全に脱線しているが、もうひとりの尊敬する大人な隊長として特車2課の後藤隊長の年齢も気になる。押井守の「注文の多い傭兵たち」中には
泉野明(21)
篠原遊馬(24)
熊耳武緒(28)
太田功(27)
進士幹泰(26)
山崎ひろみ(24)
香貫花クランシー(25)
後藤喜一(42)
南雲しのぶ(33)
榊清太郎(66)
斯波繁夫(34)
松井哲夫(41)
との設定が載っているそうだ。

 そうか、隊長と同い年だったのか。おれ。
 ・・・(無言)

 おとな買いという言葉がある。

「おとなであるはずの人間が、子供のものを大人の財布で買いあさること」で、実は私も何度かやったことがある。アニメ、まんが、まあこういうネットもか。以前は「子供のもの」と思われていたものに大人が傾倒することに、社会からの批判は薄くなった。いや、別に批判されなくなったわけではなくて、重要な消費者として期待されてしまっている、というか経済の一部として組み込まれてしまっているのに過ぎないのかもしれないが。

 なんとなくこのままでいてもいい。まだもう少しこの状態でいてもいいんだ、ということが、いろいろな「行列」に並びながら、自分のなかで渦を巻く。自己表現の多様化という口実の中で、真に向き合うべきさまざまな事柄がなおざりにされていく。

 十年単位に人は変わっていくわけではないのだろうけれど、自分がどういう五十代になるのか。それは四十代よりも成熟した自分として在れるのかどうか。何か非常に恐ろしく感じる。
 しかしながら、それではアニメや漫画や、その他もろもろの子供っぽい「モノ」を捨て去って、あるべき大人として明日から生きていけるかというと、それはまたそれで疑問形。
 自分の中のキリヤマ隊長や沖田艦長や後藤隊長やオオタコーチが今の自分を創ってきた大切な一部となっている以上、そういったものを捨て去って明日という日はありえないのではないかとも思う。

 「大人」なもの、「世間の常識」というものをぶっ壊して突っ走ったのはまず、団塊の世代だろう。彼らは良いモノ悪いモノをひっくるめて、さまざまな古い価値観を叩き壊して生きた。ぶっ壊しきれなかったものもあるし、その代わりになる新しいトラディションを作ったとはあまり思えないけれど「自分が正しいと信じる生き方を生きることの大切さ」は見せたと思う。

 俺たちは、じゃあ後に何を残せるのか。どんな顔をした、どんな考え方をする「大人」になればよいのか。
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2006年10月04日

仕事をできる人作れる人

404 Blog Not Foundさんにトラックバック。

仕事をできる人作れる人にいろいろとインスパイアされました。
「人の仕事を増やしやがって」という意味の「作る」ではない。仕事そのものを「発見」し「整理」し、それを「業務化」する人のことである。


 をう。なるほど。

 要点としては、仕事を行う職人も大事だけれど、未整理のまま転がっている問題やオーダーをいかに発見し、問題化し、手順化し、業務化するか。その仕事を行う人が「仕事を作れる人」であり、どっちも大事、という話と受け取りました。

 私も中間管理職などをやっていますが、「管理職」などといっても中小企業においては単に何でも屋の雑用係で、会社側のメリットとしては、時間外手当をつけなくてもいいこと、というくらいの扱いだったりします(ひどい)。実際にその「管理職」にあたう職務として「何をすべきか」ということを考えると、前述の「仕事を作ること」はひとつの回答になるのではないか、と思いました。

 以前、「いくら君の能力が高くても、三人分働くのは不可能だ。ただし10人の仕事を15人分の実績としてあげることはやり方次第で可能だ」というようなことを社長に言われたことがあります。

 プロフェッショナルとして生きたかった自分がジェネラリストの道を歩まざるを得なくなりつつあるのは、それはそれで残念なことなのかもしれませんが、まあ成り行きで仕方がありませんね。

 中間管理職の「仕事」が雑事に追われて本質を見失いがちです。部下たちもそれぞれ一職人から、リーダーシップを要求される業務に付く年齢になりつつありますので、「管理職の仕事」というのは常に考えながら業務に接したいと思います。

 研修のレポートか、これ(笑。
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2006年09月21日

直接民主制への挑戦:総裁選へ投票するには

自民党の総裁選が終わったようです。

自分たちにとってとても大切な選挙が、なにか関係ないところで行われているように感じて、もどかしく報道を見ています。

うーん、俺も総裁選挙に参加したい、と思いましてちょっと考えてみました。

考えること数分。割と簡単に結論に達しました。
自民党に入党すればいいんじゃないですか。

自民党の入党案内を見ますと、年会費4000円だそうで、そんくらいだったら一票分としてはいいかもなぁと思ってしまいました。

ああ、でも
総裁選挙の前年と前々年の2年継続して党費を納めていただいた党員は、総裁選挙の有権者になります。
なんて書いてある(笑

期間限定党員てのは虫が良すぎますかね。

「国会議員票」はひとり1票で計357票。全国に約140万人いる党員の票は、都道府県ごとに集計して「地方票」300票ととして合計657票だそうですが、考えてみると国民全員が自民党に入党してしまうと(恐怖の大政翼賛体制)、少なくとも国民全員で首相選びには参加することはできるということにはなりますね。

党議党則に縛られることもあるんでしょうが、参加政党かけもちしちゃいけないこともなさそうだし、ひとつ、どうですかね。

#半分妄想なので本気で怒らないでくださいましね。
posted by delta16v at 08:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 私論/暴論

2006年09月19日

WEB2.0とおたく的「濃度」

 いつの頃からか、おたくの度合いは「濃度」で語ることになっています。

 CGMやSNSなどいくつかのWEB2.0的な集まりを覗いてみています。興味の方向が非常に多岐に渡っているのでニッチな話題で検索していますが、なかなか満足するコミュニティにあたったことがありません。

 集まりが悪いと過疎だし、良い場合はコンシューマ向けの薄めのコンテンツになっていることが多いようです。逆に言うと「薄めのコンテンツ」というのが集客の秘訣ということなのでしょうか。

 たとえばですね、ガンダムのトピックを探してみます。アンケートなりコミュニティに行き着いてみると、
回答例A
・好きなキャラ
シャア
・好きなMS
シャア専用ザク
・好きな言葉
坊やだからさ
であったり、
回答例B
・好きなキャラ
一整備兵
・好きなMS
ジオング
・好きな台詞
足なんて飾りで(ry
であったりする。

 まあ一般的にはそのへんでいいんでしょうけれど、ガノタの末席をけがす者としてはちょっと口にできないことではあるわけです。 こういう設問にあたって私などがまず考えてしまうのは、
回答例C
・好きなキャラ
ガデム
・好きなMS
旧ザク
・好きな台詞
わしがそんなにのろまかね。年の割にはすばやいはずだ。
とか、とりあえずそういうけれんに満ちたことを言わないといけないんじゃないかとまず考えてしまうわけです。ココロになにかそういうバイアスがかかっちゃっているようです。
#受け狙いしているのか。ええい、あたらなければどうということはない。

 とにかく流行っているコミュニティには回答例A,Bのようなものが大量に集まっているようです。参加者は多くても、それぞれ一言書いて終わり、という感じが多いようですが。薄い人にも参加しやすい雰囲気というものが集客に大切、ということですね。

 で、濃い人の悩みです。
 回答例A、Bのような人がそれなりに和気あいあいと集まっている中に、回答例Cのように答えないと「いけないんじゃないかな」というメンタリティを持つ人間が、どのような顔と文体で入っていけばいいのか、ちょっと考えてしまいますよね。
 そういった多数を占める「薄い人々」に対する濃いサイドの感情的反発が、SNSをしてなれあい呼ばわりする動機となっているのではないか、とも思えます。

 「濃い」、「薄い」がもちろん趣味に対するスタンスの是非を表しているわけではないのはもちろんですが、ニーズとして「濃いもの」が欲しいのもまた事実。おたく同士の口プロレスというのは端から見ていて不愉快なものではありますけど、どこかにおたくが大人の会話を交わしながら過ごせる楽園がないものなのかなぁと夢想しつつ今日もネットをさすらってしまうのです。

#自称「濃い奴」ほど、自説を譲らないから居場所を失うのかなぁ。
#自戒しときます(笑
posted by delta16v at 08:12 | Comment(5) | TrackBack(0) | 私論/暴論

2006年05月11日

2007年問題に関する感想:定年のイメージ

 2007年問題とかいうのがあります。というかあるそうです。

 団塊世代が大挙して定年を迎え、色々な変化があるだろう、とのことですが、やはり職場からエキスパートが激減することに対するネガティブな予想が多いようです。

 団塊直撃というと来年以降なんでしょうが、今年あたりから定年を迎える方が増えてきました。

 で、ふと自社や取引先の様子をみますと、定年を迎えても、嘱託扱いで社内に残られる方が結構おられる様子。

 ご本人の希望もあるでしょうし、会社側の都合もあるのでしょうけれど、私の中の「定年のイメージ」というのは、なにかこう職場の人たちに花束をもらうとか、定時に退社してふと会社の玄関を振り返るとか(笑)、とにかくそういうステレオタイプなやつなんですが、どうも様子が違うふうです。

 一応、朝礼とかで挨拶はしますが、別に翌日もふつーに出社しているし。うーん。

役を外されても、やっていることは同じだったりしますから、会社という組織がいかに世代交代をきちんと考えてこなかったのかが如実に見えるような気がします。その時その時が大切だったのはわかるけどなぁ。

 本番を迎える来年以降、どのようになっていくのでしょうか。

 団塊世代はその日、社屋を振り返るのでしょうか?
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2006年04月27日

職員会議での多数決禁止に思う:教育上の効率重視とは?

 先日、都教委:職員会議で挙手や採決禁止というニュースがあり、みなさん目にされたと思います。

 私は民間企業で中間管理職なんてやっているので余計そう思うのかもしれませんが、学校経営という組織の運営に関わることを多数決で決めているとは思いもよりませんでした。

 都教委に対しては、遅きに失したというか、まあよくやったなぁと思っていましたが、今朝の毎日新聞の投稿欄には、その都教委の通達を民主主義云々ですとか、効率重視云々は遺憾と批判する投書が載っていました。

 後者につきましてですが、普段から教職員の行う事務、業務というものがどれだけ非効率なのか、非常に苦々しく思っています。教育というものが効率を無視してよいのは、子供と接する場面においてのみでしょうし、そのためにこそ、普段の学校運営業務は徹底的に効率的でなければならないと思っているのですが、「教育=非効率」を口実に、なんとも無駄なことばかりしているように思います。なんたって情報の一元管理すらも出来ていないし。同じ届けを何回書かすんだおまいら。

 と、まあ私怨もありますが(笑)、その辺をよく考えていただきたいものだ、と強く思います。

 以前、若かりしころ、社長にサシでとある意見をしたことがあります。
「カクカクシカジカ、社員一同もみなそのように申しております」
と申し入れたのです。

社長は、
「意見拝聴しました。情報として頭において判断することにします。だけど言っとくけどな、会社ってところは民主主義じゃねぇんだぜ」
とすごまれて、ああ、社会と言うのはそういうところなのだ、と強く印象に残った記憶があります。

 なるほど、学校出たてで知りませんでした。日本国内は隅々まで民主主義=多数決万能で成り立っていると思っていましたよ(笑

 そもそも多数決ってのは一定以上の母数がない場合には無責任の温床になりがちのような気もしますねー。

 少なくとも会社のなかのことを多数決で決めて、うまく運営できるとは思えませんです。
posted by delta16v at 07:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 私論/暴論

2005年12月17日

若い連中と積極的に関わること

若い連中と積極的に関わること 夕べは会社の忘年会でした。

 カラオケなんて10年ぶりだよ。

 この10年ほど、会社の飲み会は出席しても一次会で軽く飲んでさっさと撤収していました。子供たちもいるし、なんかこう「若い連中」の範疇からはじき出されて、かといっておっさん連中とクダを巻くほどには老練でもない、という中途半端な30代であったからなのかもしれません。クールでスマートなビジネスマンを目指してましたしね。

#みんなに嫌われている、というのはなしにすると(笑)

 で、ふと気づくと、このところ会社の若者たちとあまり話す機会がないんです。もちろん仕事の打ち合わせやミーティングはしげしげやっていますが、「会社人としてどう生きるか」「将来の自己像にどんなビジョンがあるか」「仕事ってのはどういうものなのか」「人としてどう生きるか」、こういったことを語る場、というのは実は会社の中にはないわけです。会社にとっては社員の資質としてとても大切なものなのですが。

 まあ「ほっといても自分で身につけるべきもの」とは思います。

 昔は酔っぱらってそういうことをセッキョーするおっさんというのは会社には一杯いて、全てに賛同できるわけではないけれども、それなりに考えさせられることや、参考になることも多かったです。自分もそういう中で人として成長してきたんだと思います。

#でも当時の自分は「ダッセーナ」と思ってましたけどね。

 ここ数年、ちっちゃい部署の中間管理職として十数人の若者と仕事をする立場になってきましたけれども、そういうことを語ってくれる人というのはどんどん減っているように思います。それにつれて若者たちがどんどん幼くなっているようにも。

 うーん、うっとーしくってダサいおっさんになるのかもしれませんが、めんどくせぇとかかったるいとか言っていないで若者と積極的に関わっていくべきか、と思います。上から語るつもりはないですが、まあ思いを語ることは大切ということですね。

#偉そうなこと言っても、ただ飲んで騒いでいるだけなんですが(笑

 公安9課のイシカワのココロが今ならわかるぜ。
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2005年11月24日

「プチクリ」の教えに身を震わせる

 オタキングこと岡田斗司夫氏のWEB日記がブログに改変されました。

 そのテーマであるところのプチクリの話。

 まあざっと言えば「プチクリエイター」ということなんですが、その発想には特筆するべきものがあると思います。

 以下、ちょっと長いですけれど、引用します。
 「自分には才能がない」なんて嘘だ。「あっという間に注文が殺到するほどの才能」はないかもしれない。でもそんな才能、超一流のプロだってめったに持っていない。そんな頂点の人と自分を無理やり比べて劣等感を持っても、なんの意味もない。
 そうかっ。そうだったのか。

 私も漠然と「モノカキになりたい」と思い、時には作家の真似事をしてみたり、あるいは新人賞の研究をしたりしながら、なにかこう悶々としつつ、物を書くこととそれで生活することを憧れのように思って生きています。

 で、自分の想像する作家の姿というのが、やはり岡田氏のいうところの「頂点の人」なわけですね。才能があるかないかもわからない自分と、そういう人を比べようとしていると。まあ、なんて僭越(笑)
 つまり、誰にだって才能はある。
 特にブログを書いている人。いったいどれだけの才能が自分にあるのかわかっているんだろうか?
 「日記を書いてるだけ」
 とんでもない!
 その「日記を書いて、人に見せられる」というだけのことができない人が大部分なのに! そんな人たちから見たら、あなたたちブログ作者は「なんか書いたり出来る才能があっていいなぁ」と思われてるのをわかってるんだろうか?
 これはまあリップサービスなんでしょうが(笑)、なにかこう非常に「力」になるお言葉ですね。
 僕はさっき書いた。
 「どんな小さなことでもいいから、読んだ人の人生が変わるような本が書きたい」
 ほら、同じでしょ?
 みんながブログ書いて、それでどこかで誰かが影響されてブログはじめて。
 だから、ブログ書いてる人はみんな僕と同じ「物書き」なんだ。
 みんな、「プチクリ」なんだよ。
 ああ、これでまた毎日書いていけます。

 自分が書くことの意味、目的について考え直したいと思います。

 単なる憧憬や妄想でなく、自分が表現したいものを文として書くことについて考える時なんですね。

 自分の文章を他人に読んでもらう事と、「いつか作家になりたい」というどこから湧いてくるのか分からないこの身を焼くような「漠然たる妄想」の関係について、自分なりに決着を付けたいと思います。
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2005年01月07日

今年の目標


1.趣味の充実
えっ、という声もありますが、何しろ時間が取れなくて、どれも浅いです。
今年は、創作、写真をメインにすえて、がんばりたいと。なんとしてでも、無理をしてでも時間を作る勢いで。

2.写真
そのうち写真はですね、修行の継続もそうですが、撮った後の始末っつーか、評価をちゃんとすべきだと思うのです。
恥ぃけど、WEBにでも吊るすべきかもしれません。まずはフィルムスキャナ購入を目標に(をぃ

3.仕事がんばります
三番目かよ。
初心に返ってですね、週間の業務予定を自分で考えて、予実管理をやるという...情けない目標ですわ。

がんばるっすよー。
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2004年11月05日

ネトゲのブログエントリ


最近、面白そうなタイトルを見つけてブログを開くとネトゲの中の話であったりすることが多い。

もちろん、ブログなんてパーソナルなものなので、何を書いたっていいのだけれど、結果として自分がまったく興味がないブログを延々時間をかけて開いてしまったとき(いや、これはdoblogならではなんでしょうが)、少なからずダメージを受けたりする。

面白そうなことがゲームの中にしかない世界、というのを想像して、すこし薄ら寒くなりました。

普段、興味深いことを探して世の中を歩いている自分からすると、ちょっとさみしいかな?
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2004年10月14日

著作権について


仕事がらみでちょっと調べてみました。で、また覚書。

割と評判の悪い(笑)JASRACのサイトを調べました。
FAQがありまして、そこによると、

>部分的なご利用であってもその曲と特定できる形でのご掲載であれ
>ば、一般的には許諾が必要な利用となります

とありますので、数行でも普通は駄目みたいですね。
またついでに言うと、

「4小節程度の短いフレーズであればJASRACへ手続きをしなくても、雑誌に掲載したり、ビデオに録音できる」と言うのは、まったくの誤解だそうです。これなんかはどっかで聞いたことがあるな。やはり駄目なのだな。

JASRACについてはそーゆーことのようです。

ところでここによると、「歌詞の閲覧」は出来るようになるそうです。やってみると面白そうですが、ちょっと無粋な利用法ですね。

時あたかも文化庁では著作権法改正要望事項に対するパブリックコメントを募集しているので、意見がある人はバンバン送ってみるのがよいと思います。法律が気に食わないからって、破っていいというのはアンモラルだと思うのです。
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ブログに歌の歌詞を載せること

 よくブログにそのときの気分で歌謡曲の歌詞を載せているひとがいる。

どーも気になるので、「歌詞 WEB 公開 著作権」でぐぐってみた。自分の覚書として残しておく。

  とほほの著作権入門がまずひっかかる。

やっぱりだめっぽいですね。

 歌謡曲などの歌詞の著作権って?なども個別の案件だが、参考になる。

 やはり著作権者の承諾がないと、WEBでの公開は違法だと思う。無粋だけどそれが法律ならしかたないな。

その他、「おもちゃの画像を一覧で並べたら...」などとひやりとする事例もあって...

 わたしもよく気をつけたいと思います(汗)。

 それにしてもとほほパパ、すげぇな。
posted by delta16v at 08:28 | Comment(4) | TrackBack(0) | 私論/暴論

2004年09月22日

■TBカフェ:携帯HATE!



[TBカフェ:携帯電話LOVE?or HATE?]

携帯電話、嫌いです。だから持ってません。したがって先月の利用料は0円です。いつ止まるかわかんないようなクルマに携帯電話なしで乗るとはチャレンジングですね、とはよく言われます。

なんで嫌いなんだろう。
多分携帯電話でしゃべっている人間というものが、おおむね他人の目も考えずに多幸症のような表情でしゃべっているからだと思います。端から見ると、とても間抜けそうにみえますもの。

そいから、携帯電話で話しながら運転のクルマが後ろから寄ってくると死にそうになりますので、やめてください。ってか運転中の携帯電話は道路交通法違反だー。
posted by delta16v at 22:52 | Comment(4) | TrackBack(0) | 私論/暴論