いろいろと世の中の品質が下がっていることを苦々しく思うことがある。最近一番腹立たしいのは写真の業界だ。
銀塩写真をめぐるテクノロジーはおそらく21世紀の初頭にその絶頂を迎え、その後、驚くべき速さで急速に退化した。よく勘違いされるのだが、進化が停止しているのではない。完全に退化している。銀塩フィルムの多様性の激減。プリント品質の驚くべき低下。カメラ自体の開発、発売の停止。メンテナンスの終了。自明のように写真のデジタル化がほぼ完了した昨今、それに反して銀塩写真が退化するのは実に当然のことではあるのだが。
デジタル写真は単なる画質の面では最高のパフォーマンスを示していた頃の銀塩写真のあり様には、未だ届いていない。
#反論あるかもしれないが、まあそういうことにしておいてくれw
それがなぜ一般的に通用するのか。「品質」に関する要求が大きく変わったのだ。カメラの世界はプロとアマチュア(というか運動会で孫を取るじいちゃんとか)が同じ「品質」の機材、材料を用いることのできる業種だった。
だがプロが「低画質」なデジタル写真に雪崩を打って移行したのは、「マス」からの「品質」に関する要求が、意外にも高くないことを知ったからではないか。それだけコストが下がり、納期が早まるのなら、若干品質は少々下げてもかまわない、とクライアントが認めたのだろう。オーダーが変わらなければ、プロはデジタルに移行することはできなかったはずだ。
カメラマンたちはその辺十分に自覚的だ。だからプロカメラマンがいう
「デジタルに移行しました。
でも『作品』として撮る写真は、未だにフィルムです、てへへ」
でも『作品』として撮る写真は、未だにフィルムです、てへへ」
というセリフは、実は彼ら自身の要求はクライアントの要求よりもずっと高いことを示しているのではないか。
メディアの品質からコンテンツの品質へ。それはアートの本質を射抜いている。
たとえばニコ動ユーザがいう
「無駄にクオリティたけぇ」
「才能の無駄遣い」
「才能の無駄遣い」
というセリフはたとえばそれがハイビジョン画質の動画であったり、ビットレートが飛びぬけて高い音声であったりということを意味しない。「そこに何が映っているのか」、「何が歌われているのか」こそが問題なのであり、そこでは「品質」という言葉は旧来のAV作品がいうところの「品質」とは、少しながら違う使われ方をしている。
そしてそれは最近突然始まったというものではなく、たとえば「その時キャパの手は震えていた」などという写真を見れば(これは嘘半分なのだけれど)、メディアやデザインの品質を飛び越えて存在しうる「作品の品質」というものは古来から珍しいものではなかった。要するに、メディアの品質の低下は、アートとしての価値の低下の本質ではない。それが芸術の本質を表現しているのは事実だ。従って変な色のフィルムでも、低劣なプリントでも、「いい写真」は撮れるはずなのだ。
だが銀塩写真の周辺技術、インフラの後退が、なぜこれほど自分を苛立たせるのか。
すでにデジタルカメラが中判の画質を超えたというような言説を聞くたびに、あの色、あの粒状性を知らずして、そのようなことを語れるのかと反論したくなるいらだち。それは元ネタを知らずして、パロディに浮かれる若者を批判的な眼で見てしまう老害によく似た感情の一種なのか。
たとえばアニメもそうだ。劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか
何か「劣化していくもの」を見る目は、例えば元に戻っていくチャーリー・ゴードンを見守るようなもので、それはおのずからさみしい視線にならざるを得ないのかも知れない。
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西暦2008年7月